鏡は人間の根源を表すもののような気がします。鏡を見て自己認識できる生き物はそう多くないらしいのです。昔々は、水に映った自分を見て、「ああ、これは私だ」と認識したことから始まって、何か霊的で神聖なものとして鏡が扱われるようになり、やがて工業の発展に伴って今のような完璧に反射して姿形を映し出す鏡が登場し、いつしか生活の必需品になりました。また、社会を映し出す鏡として、「鏡」の名を掲げた新聞社(例えばドイツの新聞“SPIEGEL“)もあります。
鏡はただの物体のようでそうではないのですね。決して自分自身の顔や姿を完全には外側から見ることのできない人間が、鏡を見ることではじめて自分の内面と外面を同一のものと結びつけ、鏡を通して自我を強化し、そして自分自身を「かんがみる」ことができるのだと思います。
そんな鏡ですが、皆さんの家の中ではどこにあるでしょうか。そしてどこにあるのがいいでしょうか。どこにでも、いくらでも、というわけにはいきませんね。自分と向き合うことをそう頻繁にしていては、私たちの日常は成り立たなくなってしまいますから。
長細い姿見なら、やはり内と外をつなげる空間に。外側から見た自分の姿を目に焼き付けて、これが私なのだ、これから外の世界で闘う私なのだ、と意識的にも無意識的にも力の湧いてくる玄関に。玄関って家の中でもとても大切な空間だと思うのです。安全な洞穴から勇気を出して外へと飛び出す動物の如く、と言ったら大げさですが、社会的存在としての自分は、やはり家の中にいる自分とは別人でしょうから、その切り替えを行う空間には、鏡と、そして包容力のある快適さが必要です。肌寒い玄関ではせっかく鏡があっても、十分に自分と対面する心の余裕は生まれません。適切な広さがあって、鏡と快適さがある玄関、それが私たち社会的な生き物にとって一つの欠かせないもの、そして欠かせない価値ではないでしょうか。他者から見た自分の姿や振る舞いで生計を立てている職業の人には、きっとなおさらのことだと思います。
鏡タイプのPS HR(E)は、確かに、暖房と鏡が一体となったモノとして機能面だけを取り上げても、ライフスタイルに変革をもたらすような価値ある存在ではありますが、空間に鏡がある意味、そしてそれがほんのりとした快適な暖かさを作り出すということ、その2つの価値に人間を対峙させる存在でもあります。それは、機能にとどまらない質的な何か、生態学的な何かかもしれませんし、情意的な何かかもしれませんが、何か私たち人間に対して質的な深みを与えてくれる存在のような気がしてなりません。
PS dialogue 2016.1